攬勝亭は江戸時代に造られた庭ですが、近年、歴史的経緯は忘れ去られ豪商長尾氏の庭という評価のみに推移してきました。
ところが、ここ数年来の研究で、中世以来の会津の歴史に深く関わる史跡でもある事が徐々に明らかになっております
特に、守る会発足後の短期間に諸方面の研究者から新情報が寄せられ、特に江戸後期~戊辰期の重要な史跡である事は確定的になって参りました。
史跡としての価値について詳しく纏めた物はPDFでお読みいただけます。→史跡としての攬勝亭(暫定版)スマホ用画像版 1頁 2頁 3頁
まだ、専門家による厳密な調査は行われていません。しかし、市街地の中で貴重な緑地です。
広さは約千坪あり、御薬園に次ぐ規模と歴史を持つ庭園で、園内には風格在る古木が残っています。
時代ごとに手は加えられていますが、中世に起源を持ち、元禄時代に今の元型が作られたと考えられています。
近世以前のお庭の作庭、修景に関する資料がなく明治以前のお庭の履歴が把握できないことと、名勝に相応しい状態ではないことから現状では、国の文化財指定は困難であるとのご判断でした。
但し、江戸時代からあったお庭である事は間違いなく、伝説に合せて近代に造られたレプリカなどではないことも明らかになりました。
従って、名勝指定は困難な物件ではあっても文化財的な価値が無い偽物ではないことは明確です。これが正確な現況把握であり、これからの攬勝亭復活の出発点になると思います。
江戸時代から続いている本物のお庭を復活させて大事に育てていくことで、将来素晴らしい名勝となるでしょう。
攬勝亭の来歴と白鬚大洪水の災害を記した碑文「菅神併庭記」があります。
旧門前の「新語堪聴碑」(仮称)は、「攬勝」の文字を読み込んでおり、字も格調の高い優品です。
安政6年の御成を記念した容保公の歌碑(作成は明治)、享保時代の句碑などが確認されています。
攬勝亭の敷地は、中世豪族館跡の典型的な地割と合致しています。戦国時代に蘆名氏の客分となった長尾氏の館がこの場所に存在した可能性が極めて高く、庭を破壊すれば中世の遺跡も壊れます。
三代正容公が松平姓を賜った頃に作られており、藩の慶事と作庭の関連を暗示する文言が十景詩中にあります。
文化文政期に活躍した家老丹羽能教が引退後攬勝亭に住んだことは、確定的であることが判明しました。
渡辺東郊の画賛に「元会津公別園」とあり、戊辰後でも民間の庭ではないとの認識があったことが判ります。
戊辰戦争時に、朱雀、青龍隊の陣屋となり、そのため薩摩十八番隊の焼き討ちされた戦跡です。
元禄時代の庭改築時に、正容公が「攬勝亭十景」の題を出し、文人に作らせた漢詩が伝えられています。
仏教思想や和歌を背景としたものから、朱子学に即した作庭への時代思潮の節目に当たる庭と考えられます。
新資料から、丹羽能教ら會津藩首脳と幕府昌平坂学問所の密接な関わりを象徴する場所であることが明らかになりました。
昭和11年に与謝野晶子が攬勝亭に滞在し、歌会を開いています。
そのほか、著名な画家が訪れたといわれており、今後、攬勝亭に因んだ作品が発見される可能性があります。